弧理論の考え方から見た「電子が粒子で波動性をもつ」ことについて

このところ考えるべき事が多く戸惑っています。今回は、ある程度まとめられたことを記します。

研究の発端は次の通りでした。

電気磁気現象が必ず直交して現れるのは、原因は一つの何かであって、我々はその異なる側面を電気・磁気として観測しているのかも知れないという発想からでした。 それがG・アダムスキーによる

図1

紡錘図形のヒゲではないか、というものです。(赤い枠の部分)   その考察の延長上に「第3起電力のエネルギー源について」があります。  この考察の結果得られたのが

E軸上の実体が原因。物体は結果。

図2

弧理論の考え方の基本形です。 その根拠を基礎付けたのは、いつも引用するある科学者による次の言葉でした。 続きを読む

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時間は独立した物理量ではない 空間の性質に依存したものである

前回の続きです。 時間と云う言葉は曖昧です。 岡潔の言葉を出発点として得たのは

  1. 時間とは、過ぎ行く運動の記憶、あるいは記録である。
  2. 時間とは、位置であって量ではない。
  3. 運動は時間に比例して起きるかどうかわからない。

というものでした。 これまでに時計(という機械装置)の運動を

図1

のように直線に直して考えたりしました。 前回わかったのは、

ア) 時刻は時計という機械装置の示す位置である。

イ) 正午から15時までには、3時間ある。という場合の時間距離(長さ)である。

としました。上記.と(ア)を比較してみて、2.について訂正が必要だとわかります。正確には「時刻は位置である」となります。

また、アナログ時計の時針・分針・秒針の長さは決められておりませんから、距離(長さ)そのものではありません。では時計という機械装置は何を表しているのでしょうか。

 

道路などの

写真1 出典:ロードカウンタ

直線や曲線の距離を測る機械にロードカウンタがあります。人が手に持って押して歩くことにより道路などの距離を計る装置です。写真1のホイールは直径約19.7cmです。ホイールの回転数から距離を割り出します。

 

国鉄標準型時計

時計はというと針の長さに決まりはありません。 時計の針の半径を決めれば、一定の距離を求めることができます。 ただし、その場合において時計という機械装置の運動が「時間」に比例して起きることが求められます。 (管理人は古典的な範囲に於いては、1.時計という装置の運動は、人の観念としての時間と比例している。2.時計という機械装置と被測定物の運動との間には比例関係が成り立っている、と考えています。このことは、前回書きました。)

アナログ時計であれば、歯車を使った回転機構ですが、電子式のデジタル時計であれば素子の往復運動であったり振動の機構を持っていて、その往復運動が「観念としての時間」に比例している必要があることになります。

難しいのは岡潔が、人が持つ時間と云う観念を指して議論していることです。 管理人はこれまで、時間と云うものについて、観念から物理的な側面に向かって考察を進めてきました。  結果として云えるのは、時間とは独立した物理量ではなくて、空間の性質に依存した性質、あるいは付随した、もしくは派生したものだということです。

その空間の性質というものが何なのかいまいち理解できませんけれど、少なくとも

時間・空間という自然科学の枠組みは誤り

です。 別の言い方では、「時間は、空間とは別の基本物理量ではない」ということです。 個人的には、時間は物理量ではないと感じます。何故なら、人の感覚(五感)で分かるのは、「物質が持つ質量にかかる位置運動だけ」だからです。紡錘図形からは、力も因果性も時間も読み取れません。

人の持つ感覚(五感)で分かる範囲、

表1

の赤い括弧の範囲から外れる領域にある現象は、時間を適用できないだろうということです。 当たり前ですが、自然科学の限界は、人の感覚の限界に等しいと考えます。岡潔曰く「五感でわからないものは無いとし思えない」のですから。(自然科学者は自覚なしに、そう理論を組み立ててきました。)

 

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時刻は位置であり量ではない 例えば3分間は、距離(長さ)であって時間そのものではない

時間についての考察は、凡人である管理人にとって長い期間を要するものでした。 考察の出発点である数学者岡潔の言葉は、以下の通りです。 「自然科学は間違っている」から【2】自然科学者の時間空間より一部を引用します。

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。

時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。

人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。

時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。

が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。

下線は管理人による。

これまでの結論として

  1. 時間とは、過ぎ行く運動の記憶、あるいは記録である。
  2. 時間とは、位置であって量ではない。
  3. 運動は時間に比例して起きるかどうかわからない。

というものでした。時計(という機械装置)の運動を 続きを読む

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自然科学は、あまりにも基礎的なことを蔑ろにしてきた

これまで当サイトに何度か次のように記しました。  「自然科学は、統合失調だ」と。 実験理論実験から得られた結果から受ける人の持つ感覚とが乖離していると。

  1. 実験1 理論1 結果1
  2. 実験2 理論2 結果2
  3. 実験3 理論3 結果3

それぞれの実験と理論と合致しており、かつ結果とも合致しているにもかかわらず、1,2,3全体を通しての「不整合である感」が拭えませんでした。  どうも管理人の感じてきたことは周知の事だったようです。

WIREDVol142015年1月号に面白い文面がありましたので一部引用します。「ハメロフ博士の世界一ぶっとんだ死の話」よりp23からです。

図1

数式で表現される大まかな現実世界は、いまのところ真っ二つに分けられている。古典力学の法則が秩序を担うマクロの世界と、量子力学が支配する、素粒子、原子、分子といったミクロの世界だ。しかし2つの理論の間には断絶があり、その境目がどこにあるか完全には理解されていない。つまり、物質がどれだけの「大きさ」であれば量子論が通用するのかわからない。

マクロの世界は、波動関数の収縮などものともせずにそこにある。しかしすべての物質はミクロなものの集合だ。波動関数の収縮がマクロの物質で起きない(ように見える)理由がどこかにあるはずなのだ。おそらくそのメカニズムこそが、量子力学と古典力学の断絶をつなぐヒントになる。しかし、それには観測者自体がシステムのなかに組み込まれなければならない。

管理人は、古典力学と量子力学の断絶以上に不整合を感じています。量子力学などの先鋭化された実験の間においても人の感覚と乖離しています。  引用では断絶をつなぐヒントは「観測者自体をシステムに組み込まねば」と述べています。 これまで、管理人は「大凡考えられる物や事は相対的だ」と考えてきました。 その意味でわれであるとともに、他は二つ以上であり、計3つ以上の対象の内に考えるべきだと考えてきましたし、考察の基本もこれにありました。

最早、自然科学の基礎となる「時間空間」のとらえ方に問題があることは明白です。相対論と量子理論の成立過程にあった1900年代初頭に問題の本質に気付き、軌道を修正すべきだったと考えます。 自然科学はあまりにも基礎的なことを蔑ろにしてきました。

 


参考

E=mcの数式の解釈について、「物質はエネルギーに転換するし逆にもなるというが、本当は一つの実体の異なる側面である」が弧理論の考え方の出発点です。  ここに余分な次元軸であるエネルギー軸を考える根拠があります。

図2

E軸上の実体が持つ真のエネルギーは、物質面(M軸)において質量として認識されます。横からはエネルギー面が見えます。このように視点を変えるのではなくて、実体の物質面への投影角を変えることによって

図3

M軸においては、質量mとエネルギー[ML2T-2]※(当サイトでは時間を使わない運動)が両方の側面を持っています。これが基本です。

投影角θがゼロのとき、実体であるCがCのときに、質量はM軸に対して次元を失います(測定できない)。同時に運動のときに「」として観測されます。これが光速度に相当します。 従前、波として観測されるのは運動のときのみだと認識してきました。

電子は粒子としても波としても観測されます。

写真1

その際の電子の速度は光速度よりかなり遅いです。このような遅い速度であっても電子は波として観測されます。 どうも、どれほどの投影角かは不明ながらも図3のCの運動などのときも測定の仕方によっては、電子は波として観測されるようです。  これが、冒頭引用文の「2つの理論の間にある断絶」をつなぐものの可能性があります。

 

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時間の非対称性について

ここのところ、因果性あるいは物理学の因果律について調べています。そうしますと時間の非対称性時間の矢)に行き着きました。

時間についての考察の出発点である数学者岡潔の言葉を引用します。「自然科学は間違っている」から【2】自然科学者の時間空間より

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。

時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。

人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる

時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。

が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。

下線は管理人による。

かなりな期間を要しましたけれども、結論として

  1. 時間とは、過ぎ行く運動の記憶、あるいは記録である。
  2. 時間とは、位置であって量ではない。
  3. 運動は時間に比例して起きるかどうかわからない。

1.について、岡潔の云うように『時の過去のうちに「時は過ぎ行く」という属性の一つの性質を取り出して、そうして観念化したもの』ですから、

図1

のように、時間は、時の現在と未来に適用できるかどうか、全くわからないということです。  古典的には可成りな精度で予測可能ですから、決定論的な感じを受けますけれども、人が生まれ落ちた瞬間に人の活動の全てが決まるということは事実としてありません。 ですからこの辺りに本質があるだろうことがわかります。 はっきり記すと古典物理学の範疇においても、決定論になり得ません。

ある現象において、実験式理論式が一致したとします。後は実験における測定の精度だけです。だからといって、理論式に時間tを用いているならば、本質的に決定論にはなり得ません。  それを量子論的確率だと考えるか、複雑系だと考えるかどうかいろいろあり得るでしょうが。

2.について、時計という機械装置の運動

図1

のように直線に置き換えます。すると文字盤に刻まれた「時刻なる数字」の数直線ができます。これは「位置」であって、「」ではありません。 岡潔が云ったという「数は量のかげ」の例外です。時間は運動にかかる位置であって、これに数を割り付けて「時分秒」の単位をつけたものです。あたかも基本物理量のような振りをしていますけれども、これは間違いです。

3.について、時間は作るものです。その精度は驚異的です。しかし、時間は本質的に過去に起きた記録(時計という機械装置の運動の記録)です。 ですから運動の現在と、未来に起きるだろう運動について、時間に比例して起きるかどうかは、わかりません。  繰り替えします。運動が時間に比例して起きるかどうか分かりません。時間は過去の記録だからです。しかも物理量ではありません。勿論のこと、精度の問題ではありません。 時報は過ぎてからしか知らせることはできません。

 

さて、本題です。ここまでの考察によって分かるとおり、時間の非対称性など、自明のことだと理解できます。

アナログ時計の時針・分針・秒針は、右回転で設計されています。(おそらく南向きにあるときの日の出、日の入りの方向に同じだろうと考えます。) 左回転の時計を設計することは可能です。鏡に映せば左回転になります。だからといって「運動方向が逆方向」なだけであって時間が逆になろうはずはありません。単なる記録、あるいは(過ぎた運動からくる)人の意識が持つ一つの観念に過ぎないからです。

ある人がA地点からBへ運動(移動)したとします。逆にB地点からA地点へ運動したからといって、人は時間が逆行したなどどは考えません。それと同じです。

ついでながら、過去記事において管理人はマイナスエネルギーなる概念を捨てたと記しました。運動から作る時間の基(非対称である=時間は逆行しない)、運動が逆になることもあり得ません。  エネルギーの次元解析は[ML2T-2]で時間を含みます。ですからエネルギーが負になることはあり得ないということです。 観測者に対して物質が「静止している=絶対零度」以下の運動などあり得ません。   ただし、E-M軸平面における真のエネルギーは、物質のエネルギー[ML2T-2]がゼロの状態より低い値はあると考えます。 これは空間が持つある種緊張状態を意味します。真空エネルギー、ゼロ点エネルギー、弾性エネルギー?何と呼ぶか現時点ではわかりませんけれど。空間とは何か?真空とは何か? 五感でわかる空間が3次元と認識される理由を参照ください。

 

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気(キ)とは何か

考察にあたって、いろいろ調べていますと何故だか分かりませんけれど、とても似ていると感じることが幾つか出てきます。それらをまとめて構成することによって、何かに到達できるのではないかと考えてきました。これまで参考にしたのは、

  1. G・アダムスキーのコンタクトにかかる資料
  2. ダニエル・フライのコンタクトにかかる資料
  3. 数学者岡潔の言葉
  4. ヲシテ文献
  5. 聖書の一部
  6. 日月神示の一部
  7. 記紀の一部

などです。これら資料の一部に似た点があることから、それぞれの似た特徴をまとめたのが例えば

図1

あるいは 続きを読む

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ウィジェット「時計」の説明文を変更 & 神の数式と時間の関係

右サイドに表示してある「国鉄標準型時計」の説明文を以下に変更しました。

国鉄標準型時計

『人の五感で分かるのは運動だけ。 時間とは時計という機械装置の「位置」であり、時間という「量」は無い。だから時間という物理量は存在しない。』


ちょっと余談です。

時間について長く考えてきましたけれど、漸く何が問題なのか分かってきました。 しかし、時間お金も何ら「量」を伴っていないにもかかわらず、「時・分・秒」や「円・ドル・€」などの単位を付けることによって人々を誤魔化してきました。 罪なことです。

数学者岡潔「数は量のかげ」

例外もあるということです。

 

そういえば「量」を伴わない時間をパラメーターに持つ

写真1

写真2 出典:「神の数式」はディラック方程式から始まる。

神の数式にも当てはまるということ?

  1. 素粒子を大量に浴びても人の感覚で分からない。仮に分かった場合は火傷として認識されるだろう。
  2. 仮にクオークなど素粒子の寄せ集めが基本粒子であったとして、岡潔の云うように「運動が時間に比例して起きるかどうか」分からない。
  3. 時間は過ぎ行く運動の記憶あるいは記録であって、時の現在と未来に適用できるかどうか分かっていない。

1.と2.について、神の数式は「宇宙の全存在」を時間軸に沿って、記述しようとしているという事でしょうか。それだと失敗していると云えそうです。  素粒子と人の感覚とに隔たりがあります。人にとってほとんど有害としか云えない素粒子の寄せ集めにより人ができているというのは違和感があります。単独で取り出せないから無害だというのも変です。

3.について、時間は、

図1

運動の現在と未来に適用できるかどうか不明ですから、前回記事に示した「古典的な決定論」としてのは、そもそもあり得ないということになります。 量子脳など考える必要はないように感じます。

というか、神の数式により宇宙の全存在が記述できたのだから、後は人の意識の記述だと考えてのことで量子脳に行き着いたということでしょうか? 「未来は確率によって決まる」というのは何というか、どこか欺瞞?っぽいなあ。 それだと岡潔が第1の心として述べた「私わたくしというものを入れなければ金輪際動かん心」ができる訳がありません。もっと積極的な能動的な何かがあるはずです。

天気予報の精度が上がってきたと実感しますけれども、100%になり得ないのは観測点の数に比例するとともに確率によって決まるという部分はある程度納得します。(数値計算の基礎に時間というパラ-メタを持っているからともいえます。)  しかしながら、人は物質の集合であって、それら集合の内に確率によってたまたま、ほんとにたまたま人という意識を持った生物ができたというのは、どうも違うように感じます。 そうやってできた人は、ただの骸むくろです。

矢張り、日月神示の一部が気になります。参考になる部分を次回、記します。

それから、これまでの考察の結果、空間と物質並びに真空のことが分かってきました。そこで、これまでM軸について、3次元物理空間などの呼称を用いてきましたが、これからはM軸を「物質空間」と呼ぶことにします。

 

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量子脳理論は不自然だし、ムリがある 岡潔「2つの心」、「弧理論による宇宙」との比較検討

最近、物質とその運動並びに情報との関連について考察しています。

その過程で量子脳理論という分野があることを知りました。よくわからないのですが、人が人であることの理由唯物主義たる自然科学者が追い求めて行きついた先なのだろうと思います。 今回は、管理人が量子脳理論は奇妙だと感じることを記した上で、岡潔の【1】2つの心、ならびに弧理論の考え方と比較検討します。

(1) 近年とみに人工知能(AI)の研究が進んできました。


動画1

有名なチェスや将棋プログラムだけでなく、クイズの回答でも人に迫る、あるいは越えるものが出てきました。 古くは人口無能のELIZAやエキスパートシステムなどの研究がなされたことの記憶があります。

(2) 一方で、従来のスパコンを越えるものとして、

写真1 出典:量子コンピューターの種類と原理

量子コンピューターが作り出されています。

 

岡潔の云う「五感でわからないものは無いとしか思えない」唯物主義者たる自然科学者たちが、(1)人工知能やこれから発達するだろう(2)量子コンピューターにより「人の能力を超えてきた場合」は、人の尊厳をどこに求めるのだろうかと考えました。 続きを読む

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寺田寅彦 「物理学と感覚」 ”感覚というものの意義効用を忘れるのは極端な人間中心主義でかえって自然蔑視と言われる”

Amazonにて、物理学に関して調べていたところ、寺田寅彦の「物理学と感覚」という随筆がKindle版でありました。iPad にアプリを入れて読んだところ興味深かったのでメモします。 この随筆は著作権が切れていて青空文庫からのもので無料でした。公開されている寺田寅彦の作品中、作品IDNo.2342にありました。(HTML版「物理学と感覚」で読めます。)

この随筆には、多くのことが含まれていて示唆に富んでいます。まとめるのは難しいです。このうち強く感じたことを記します。

「人間がその周囲の自然界の事物に対する知識経験の基になる材料は、いずれも直接間接に吾人の五感を通じて供給されるものである。」として、

図1

目の不自由な人などを例として説明した上で「象と盲者のたとえ話は実によくこの点に触れている。」と述べました。

外界の存在を認めその現象を直接に感ずるのは吾人ごじんの感官によるほかはないのにその感官がすこぶる粗雑なものであってしかも人々個々に一致せぬものである。それで各人が自分の感覚のみをたよって互いに矛盾した事を主張し合っている間は普遍的すなわちだれにも通用のできる事実は成り立たぬ、すなわち科学は成り立ち得ぬのである。

下線は管理人による。 「感官は粗雑で、しかも各人で一致しない」ものです。ですから、物理学者は、感覚をはなれた見方をどこまでも徹底させて行くことにより科学の発達を促せました。

宇宙自然を人がどう捉えるかによる訳ですけれども人の感覚はいい加減ですから、「人を排除するため」、モノサシをあてることによって普遍的事実を抜き出すということです。 岡潔によれば「(自然科学者は)自然を時間・空間とした」ということです。 時間空間というのは、人の感覚を排除した一つのモデルだということです。

物理学を感覚に無関係にするという事はおそらく単に一つの見方を現わす見かけの意味であろう。この簡単な言葉に迷わされて感覚というものの基礎的の意義効用を忘れるのはむしろ極端な人間中心主義でかえって自然を蔑視べっししたものとも言われるのである。

と結論づけています。 寺田寅彦は、「簡単な言葉」と述べていますけれども、下線の部分の意味が難しいです。 管理人は、この言葉について、岡潔が云ったように自然科学(時間・空間)は一つの簡単な模型であって、それは自然そのものではなくて、自然を観る際の一つの見方に過ぎないということだろうと思います。

このような「五感でわかる」というものの粗雑さを排除することによって科学を進歩させたとしても、感覚の基礎的な意義や効用を忘れるのは極端な人間中心主義であって、自然を蔑視したものだということです。

一見、岡潔の言葉である「唯物主義」に矛盾しているようですが、そうでもありません。つまり、人の感覚を排除するという前提の元、実験をした結果について、モノサシを読むのはどこまでも人の感覚によります。そう考えると「五感でわからないものは無いとしか思えない」唯物主義は生きていると云えます。

ところが、寺田寅彦の頃に提唱されていた素量説(今の量子理論)の進歩につれて唯物主義を捨て去っていました。(2016年11月29日物理学はとうの昔に唯物主義を捨て去っていた) 管理人が自然科学(ことに物理学)は「五感でわかる」ということを蔑ろにしていると感じたことを遙か昔に寺田寅彦は指摘していたということです。

 

2017年7月19日群盲象を評す 自然科学の「統合失調」は意図したものか?という記事を書いたのは、上記の「自然科学の前提である(人の感覚を排除)した」上でなお、統合失調ではないか?との考えでした。

今、仮に

  1. 実験、結果と 理論
  2. 実験、結果と 理論
  3. 実験、結論と 理論

があったとします。例えば、「電子は粒子であり、波である」は実験の事実です。(電子の比電荷の測定二重スリット実験粒子と波動性の二重性)「光は波であるし、粒子でも」あります。 そして、「電子はほぼ完全な球体」でもあります。 量子もつれに至っては、実験と結果は事実なのに、理論は通常の意味でほとんど理解できません。

1,2,3のそれぞれに実験があり、人の五感でわかる結果に置き換えた上で、それぞれに矛盾無く合致する理論があります。 ところが前述の人の感覚を排除してなお、1,2,3の間には人の感覚を満足させる何かが欠けていると感じます。管理人にとって、これは致命的です。 これは最初に戻って、モデルが自然そのものに合致していないからだと考えます。 それぞれは正しいのに全体を眺めるにどうにも腑に落ちないのです。(統合失調と感じる。) どこまで行っても人は五感の内に生きていることから離れてはいけないのです。感覚を持つ人が生きていることを蔑ろにしてはいけないと感じます。 このような例は他にも見つかると思います。

 

これまでにも繰り返し「おそらく自然科学は近似だ」と述べてきました。

表1

の両端は、人の持つ五感でわかる現象が消失する領域だろうということです。 その誤りの元がモデル「時間・空間」の時間にあるとの結論です。時間は基本物理量として不適です。

自然科学が示す自然というものが統合失調だと感じる原因は、我々の五感を通じて得る感覚というモノや事が映像だからと考えると納得できます。 検索サイトにて「岡潔 素粒子 映像」で検索すると上位5つまで岡潔思想研究会の講演録からの資料が出てきます。 それだけ岡潔は、この考えを強く持っていたということです。

弧理論は、別の次元軸から投影により現象が起きているという開放系の理論です。弧理論の考え方によれば、自然の現象は「見方によっては、幾通りにも見える」らしいことがわかっています。 そして幾通りに見える現象の背景には情報が関係しているようです。

 

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電磁誘導とローレンツ力はなぜ同じ起電力を与えるか~ とね日記よりメモ

ブログ「とね日記」の9月8日の記事「自然法則: 量子力学による古典物理学の謎の解明」に興味ある記事がありましたのでメモします。 記事は2つあり、メモするのは後者です。

ブログの元記事です。 筑波大学 ファインマンも解けなかった問題を解明 ~ファラデーの電磁誘導の法則とローレンツ力はなぜ同じ起電力を与えるのか~

以下、リンク等もそのまま引用します。(ただし画像のリンクははずしてます。)


ファインマンも解けなかった問題を解明
~ファラデーの電磁誘導の法則とローレンツ力はなぜ同じ起電力を与えるのか~

国立大学法人筑波大学 計算科学研究センター小泉裕康准教授は、磁場を横切る導線に生じる誘導起電力が「ファラデーの電磁誘導の法則」と「ローレンツ力」という2つの本質的に異なる方法で求めることができるのはなぜかを明らかにしました。この誘導起電力を求める問題は高等学校の物理の教科書にも載っており、馴染み深い問題です。しかしそれにもかかわらず、2つの本質的に異なる方法で結果がなぜ一致するのか、これまで明らかにされていませんでした。

1. 磁場を横切る導線に生じる誘導起電力が2つの本質的に異なる方法、「ファラデーの電磁誘導の法則」と「ローレンツ力」で求めることができるのはなぜかを明らかにしました。

2. 電子の運動を量子力学的な波動関数で記述すると同時に、電磁場をゲージ場とし、電場、磁場の代わりにゲージポテンシャルを用いることにより、この問題を解きました。

3. 高等学校の物理の教科書にも記載されていた奇妙な一致に対する理論的な回答が得られると同時に、量子コンピュータの開発にも貢献する成果です。

「ファインマンも解けなかった問題」という部分については無料公開されている「英語版のファインマン物理学」ではVolume II、Mainly Electromagnetism and Matterの「Chapter 17: The Laws of Induction」の冒頭に書かれている。また日本語版では「第3巻:電磁気学」の「第17章: 誘導法則」の最初の3ページに対応している。

  

この中でファインマンは次のように書いている。

We know of no other place in physics where such a simple and accurate general principle requires for its real understanding an analysis in terms of two different phenomena. Usually such a beautiful generalization is found to stem from a single deep underlying principle. Nevertheless, in this case there does not appear to be any such profound implication. We have to understand the “rule” as the combined effects of two quite separate phenomena.

われわれは物理学のほかの所ではどこにも、このように単純で正確な一般法則がほんとうの理解のために二つのちがった現象による分析を必要とする場合を知らない。普通にはこのような美しい一般化は唯一の深い、基礎原理から導かれることがわかる。しかるに、今の場合にはこのような深い意味は見られない。われわれは“規則”を二つの全く別の現象を結び合わせた効果と理解するより仕方がない。

この奇妙な一致の謎は、もちろんファインマンだけでなく、誰にも解けていなかった。

樺沢宇紀先生によると「古典電磁気学で見られた2つの本質的に異なる方法での奇妙な一致は、電子の量子状態を表す波動関数の位相因子の2重性により繋がっていた結果」だということである。


「古典電磁気学で見られた2つの本質的に異なる方法」とは、ファラデーの電磁誘導の法則とローレンツ力のことです。 「奇妙な一致」とは、「同じ誘導起電力」が得られることです。 「電子の波動関数の位相因子の2重性により繋がっていた結果である」とのことです。

 

管理人には理解できないです。以下、感想です。

何か本質的な説明になっていないような気がします。「位相因子の2重性」て何だ? ではなぜ「2重」なのだろうか? 何か本質から逸れて、矮小化したような気さえします。 まさか電子が「粒子で波動性の2重性を持つ」と定義した延長上にあるのでしょうか? 実に奇妙な一致です。

直観からすれば、物質の「運動とは何か」という本質から来ているような気がします。もっと簡単な。   基本粒子である陽子、中性子、電子の3種類の組み合わせによる「相互の運動」の違いから来るように感じます。何か抜け落ちてる。

 

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